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石廊(いろう/いらう〔)は日本海軍の給油艦〔。知床型給油艦の7番艦で〔、艦名は静岡県・伊豆半島の石廊埼による〔#日本海軍艦船名考pp.259〕。 == 艦歴 == 1918年(大正7年)度の八六艦隊案で計画され、大阪鉄工所(現:日立造船)桜島造船所で1922年(大正11年)10月30日に竣工、呉鎮守府籍となる。平時は北アメリカ〔『第二十二回輸送報告』pp.3〕、ボルネオ島〔『石廊行動変更ニ関スル件』pp.7〕など海外からの重油輸送に従事した。大正15年(1926年)11月30日にサンペドロに入港した時、アメリカ戦艦カリフォルニア (''USS California, BB-44'') とウェストバージニア (''USS West Virginia, BB-48'') に対して登舷礼を行ったものの、両艦に気づかれなかったということがあった〔『第二十二回輸送報告』pp.4〕。また、停泊中にはペンシルベニア (''USS Pennsylvania, BB-38'') からアメリカンフットボール観戦の誘いがあり、乗員がペンシルベニア対オクラホマ (''USS Oklahoma, BB-37'') の対抗戦を観戦するという一コマもあった〔『第二十二回輸送報告』pp.7〕。日本国内においても、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では品川方面に出動して救援物資輸送や通信など支援任務に従事した〔『震災救護日報第二十一号』pp.1〕。 1941年(昭和16年)10月31日に第四艦隊付属となり、12月8日の太平洋戦争開戦をクェゼリン環礁で迎えた。同日、ウェーク島の戦いに参加のためクェゼリンを出撃。ビキニ環礁で待機したが、最初の攻撃に失敗したため作戦は一時中止となり、12月11日にクェゼリンに帰投した〔『第四艦隊戦時日誌』C08030018200, pp.6,7〕。以降は横須賀、トラック、ラバウル、マーシャル諸島間を往復した。1942年(昭和17年)6月に一旦呉に入港して呉海軍工廠において入渠整備を実施。整備後は従前どおり、トラックやラバウル、マーシャル方面への輸送任務に従事した。12月10日にジャルート環礁を出港し、サイパン島経由で12月26日に呉に入港〔『第四艦隊戦時日誌』C08030018400, pp.9,10,11〕。1942年(昭和17年)1月14日に呉を出港し、馬公を経由して2月1日にトラックに到着〔『第四艦隊戦時日誌』C08030018400, pp.16,17,18,19〕。2月27日、ジャルート出港後にの地点でアメリカ潜水艦プランジャー (''USS Plunger, SS-179'') の雷撃により損傷する〔「SS-179, USS PLUNGER」p.106,108 、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 〕。損傷により航行不能となり、ジャルートに引き返して応急修理を5月まで実施する。5月23日、特設運送船「興津丸」(日本郵船、6,666トン)に曳航され〔駒宮, 132ページ〕、クェゼリンから合流してきた駆逐艦「追風」と第31号駆潜艇の護衛を受けて〔『呉防備戦隊戦時日誌』C08030368100, pp.11〕ジャルートを出港し、呉に向かう。行程のほとんどで敵襲を受けなかったが、6月10日早朝、の宮崎県細島沖において〔『呉防備戦隊戦時日誌』C08030368100, pp.6〕アメリカ潜水艦ティノサ (''USS Tinosa, SS-283'') の攻撃を受ける。ティノサは前日深夜に発見して追跡を続けており〔 「SS-283, USS TINOSA, Part1」p.11,19〕、ティノサ艦長ローレンス・ランドール・ダスピット少佐は、この時点で最後に残っていた魚雷6本を全て使っての攻撃を決していた〔 「SS-283, USS TINOSA, Part1」p.11〕。魚雷は2本が命中したと判断されたが、爆雷攻撃を受けて確認する事ができなかった〔 「SS-283, USS TINOSA, Part1」p.12〕。被害は大事に至らず、11月いっぱいまで呉海軍工廠で修理を実施した。 修理が終わった後、12月8日に佐伯を出港するオ803船団に加入し、パラオ経由でバリクパパンに向かう〔『呉防備戦隊戦時日誌』C08030368100, pp.26〕。以降はバリクパパンとパラオ間の輸送任務に従事する。1944年(昭和19年)3月15日、重油、ドラム缶、大発動艇を搭載して「鶴見」などとともにオ507船団を構成し、駆逐艦「春雨」「白露」、第36号哨戒艇などの護衛を受けてバリクパパンを出港してパラオに向かう〔『第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』pp.8〕。しかし、3月22日朝にの地点を航行中、アメリカ潜水艦タニー (''USS Tunny, SS-282'') の雷撃を受けて魚雷が1本命中し損傷する〔『第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』pp.9 、「SS-282, USS TUNNY, Part 1」p.130 、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 〕。艦首部が沈んだものの応急修理を行った上、パラオに入港した〔『第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』pp.9,10〕。3月30日、パラオで停泊中に第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機によるパラオ大空襲を受け、航行不能となる。翌31日の再度の空襲で大破擱座し、放棄された。その後、翌月4月17日に船体が全没し、5月10日に除籍された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石廊 (給油艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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